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雑貨人生20数年の想い出、感じたこと、創作を愛する人へのエール といった感じのエッセイです。
雑貨屋KUMAのエッセイ 「雑貨想い出帖」 バックナンバー

   Vol,14〜Vol,59

(14以前は保存してありません)


第45回
「子供は物作りの天才」
(2003年9月16日UP)

よく子供の作品は素晴らしいということを言いますね。 私もそう思います。
絵でも工作でも習字でも、また音楽や発想にも子供の感性の素晴らしさを感じます。 作品展などを見ると、時々はっとすることがあります。 すごい!と、うなることもよくあります。
しかし多くの場合、そうした感性はだんだん消えていってしまいます。 なぜなんでしょう? 私自身それほど感性が鋭いというわけではないので、あまりえらそうなことは言えませんが、これまで仕事で付き合いのあった方は、なんだかみんな同じような人が多かったですね。 ですから私には業界に友人はいません。 失礼ながらつまらないんですよ。
ネットをやるようになって、日本中に素晴らしい人がいることがわかりましたけどね。

雑貨にしろインテリアにしろ、「創造」することが仕事なわけですから、もっととぎすまされた人がたくさんいてもよさそうなものなのですが、ほとんどいませんでしたね。 この人はすごい!と思ったのは、あるメーカーの社長兼デザイナー、お一人だけでした。
どうして大人になると人はつまらなくなるのだろう。 子供の頃の感性はいつ頃から、なぜ消えていくのだろう。 そんなことをこれまでにもよく考えました。
家庭を持つまではわかりませんでしたが、自分に子供ができ、育児をし、幼稚園や学校などでいろんな方と会い、いろんな話を聞くうちに、子供の感性をつぶしているのは、親をはじめとした大人たちであるということに気が付きました。
こう書きますとおそらくは反発があると思います。 もちろんそれは承知の上です。

私は子供たちの作品を見るのが好きで、学校の作品展や、いろんな展覧会を見に行きます。
そういうところに展示されている作品は様々で、のびやかな絵や字、作品を見ているととても楽しいです。
しかしその中には絵画教室や書道の教室などから、たくさんの子供たちの作品を出品していることがあり、それらの絵や字には全然個性がないんですね。 同じ手法で描かれていたり、こうすれば大人受けすると言わんばかりの静物画であったり、墨で書かれた字の下に鉛筆の下書きが見えたりで、そこには明らかに大人の存在を感じるのです。
つまり大人の目線を子供に押し付けて、型にはめたり、枠に押し込んだりしているのを感じるんですよ。 そうした絵にはのびやかさが感じられません。 とても意図的で打算的で子供らしさがないんです。
しかもそうした絵が賞をいただいているのです。

私はある作品展で、衝撃的な絵を見たことがあります。
描いたのは確か5年生だったと思いますが、おそらく2階の窓から見た景色を描いたのでしょう。 画用紙の真ん中に電柱の上の部分、電線がごちゃごちゃと配線されている部分ですね、それが描かれていて、その背景に通りの向こうの家々が描かれ、その窓には植木鉢の花などが描かれていました。
その大胆な構図にも驚きましたが、マーカーかサインペンで描かれたその絵には、鉛筆の下描きがなかったんです。
つまりその絵を描いた子は、下描きなしにいきなり画用紙に電柱を描きだしていたんですね。 しかも描き損じたところは一ヶ所もありませんでした。 これには驚きましたね。
次の年にも同じ作品展にその子の絵が貼られていましたが、一目見て「あの子の絵だ」とわかりましたよ。 ものすごい個性でした。
それに比べれば大人におしえられた技法を駆使した絵や、鉛筆の下書きをなぞった字などは、おもしろくもなんともないですよ。
どうしてもっと自由に書かせてあげないんでしょう。 字だって絵だって描きたいように自由に描いていいんです。 もちろん基本は大切だと思いますよ。 でも枠にはめるのはよくないです。

日本人は主体性、自立心が乏しいとは、昔から諸外国から言われていることです。 原因は親を含めた大人の子供に対する過干渉です。 本来自由に楽しむべき芸術においても、大人たちは子供に干渉します。
絵を描かせれば「そこはそんな形じゃないでしょ」とか、「そんな色じゃない」とか、「もっとこう描きなさい」とかいろいろ言います。
字を書かせれば「お手本と違う」とか、「もっと太く書きなさい」とか言い、楽器を演奏させれば、「楽譜ではもっとのばしているでしょ」とか、「ほらまた間違えた」とか横から干渉します。
親や大人にそういわれた子供は自分の意志を失い、やる気を失い、ただ叱られないようにすることだけを考えて、絵を、字を、演奏を楽しむ余裕もなく、イヤイヤやっているなんて光景をよく目にし、耳にします。

どうして自由に描かせないんでしょう。 形がいびつだって色が違ったっていいんですよ。 その子はそう描きたかったんですから、それでいいんです。
字だって大きく書こうが小さく書こうが、太く書こうが細く書こうがその子の自由です。
演奏だって楽譜どおりじゃなくていいし、間違えたっていいんです。 大切なのはそのとき子供が楽しんでいる、ということでしょう。
絵を描いて楽しい、字を書くのは楽しい、音を奏でるのが嬉しい、そういう気持ちになること、そういう気持ちになれる環境を作ることが大切であり、それこそが大人がしてやらなければいけないことだと思うのですよ。
そして子供の作品をほめてやることです。 子供の演奏を楽しむことです。 それが個性を伸ばす教育なはずなんですが、実際にはあまりにも大人の目線を、大人の常識を押し付けていることが多いですね。

そうして育った子供は知らず知らず画一的な人間になり、自分の個性を表現するのに言葉が必要だったり、それらしく見えるファッションで身を包んだりしなくてはいはいけなくなるんです。
個性的に見える格好、その職業っぽく見える格好にすることで、自分を枠にはめなければ安心できなくなるんです。 そういう人間の頭から独創的な発想は出てこないでしょう。 人を感動させる芸術は生まれないでしょう。

日本人は集団的団結力なしに生きていけなかった歴史を持っているためでしょうか、人と違うことをしたり、枠からはずれることを極端に恐れている感じがします。
「出る杭は打たれる」という言葉があります。 つまり打たれるくらいなら頭を下げていようということなんでしょか。
親は自分の子をほめられると、「いえいえ、この子はもうしょうがないんですよ」とか、「そんなことないんですよ」とか言います。 それが人間として謙虚であると思っている人が多いですが、子供がほめられたら素直に喜べばいいんですよ。 そしてそれを子供に伝えてあげて、「○○さんがあなたのことこんなふうにほめていたよ」と言ってあげればいいんです。 それが子供を、個性をのばすことだと思うんですけれどね。
なんだか大人が寄ってたかって子供たちの感性を削り取り、平凡な特徴のない人間にしようとしているように思えますね。
日本で芸術が育たないのは、そんな底辺があるからなんじゃないでしょうか。

子供たちは無限の可能性を秘めて生まれてきます。 その可能性を大人たちがのばしてやれる環境、それが広い意味で世の中を潤わせるんじゃないかなと、私は考えているのです。
子供が何かを描いたら、なにかを作ったら手放しでほめてあげましょう。 楽器を演奏したら間違いを指摘しないで、その音を一緒に楽しみましょう。 そして「また見せてね」「また聴かせてね」、そう言ってあげましょうよ。 きっとそう言われたとき、子供の目は輝くはずです。 どうか大人の目線を押し付けることなく、創作が楽しめる環境を作ってあげてくださいね。